(二)


 最初の日から、私はとにかく声が良い、と言われた、自分でもそうかもしれない、と思った、その店は高級な音響機材とマイクを使っていた……東中野のそれがいかにひどいマイクセットだったのかという事もわかった。 ドイツ製の高いマイクで歌うせいか、私の「声」はものすごく評判が良かった、澄んだ高音から低い地声まで、自由自在に出せるような気がした。
 「君の声は、ドラマティックソプラノというのだろうね」
 そんな事を言うお客もいた。
 その店はカウンター七席、あとボックス席、合わせて三十人も入れば満杯になる位の広さだった、ただし内装はシンプルで格調高く、ゆったりとした作りになっていて、ホステスなどはむろんいなくて、黒いロングスカートを履いた女の人が三人、ウエイトレスをやっていた、彼女達は絶対客の席に座ったりはしなかった。
 客層は若手エリートサラリーマン、出版社関係の人、大企業の重役が時々一人で飲みにくる……それと有名人が時々来る、そんな店だった。
 入ってすぐ、私の苦難は始まった……リクエストだ、色々なお客が色々なリクエストをするのだった、ほとんど英語の歌だった。
 私は安いレコードプレイヤーとスピーカーを買い、レコードを聞いた、有名なスタンダードが沢山載っている分厚い譜面の本も買った。
 歌詞の意味なんて考える暇は無かった、とにかくリクエストがあった曲のシングルを買い、早いテンポの曲は四十五回転のレコードを三十三回転に落として発音を覚えた、どんどんレパートリイは増えていった……だが、私の苦しみはそこからだった。
 「君の歌い方は何だか変だね……」
 「何か、デタラメに歌っているみたいな気がするんだけれど……」
 そう言い出すお客が少しづつ増えてきたのだ……。
 その店にはピアノのタイバンがいた、タイバンというのは多分交代バンドの略だと思うのだけど、私が三十分間、ギターを弾いて歌うと、今度は三十分間ピアノの演奏が始まる、そういうシステムになっていた。
 その時のピアニストは石田さんという女の人で、今で言う帰国子女のハシリみたいな人だった、お客や店の人の話を総合すると、彼女のお父さんというのはどうやらすごく偉い人らしく、彼女は小学校の低学年から高校を終るまで、ニューヨークで育って、それから日本の、ピアノではトップといわれている音楽大学のピアノ科を出た、という話だった。 彼女のピアノはものすごくうまかった、ピアノの生演奏なんてそれまで一度も聞いた事の無い私にすら、それはほとんど本能的にわかった……第一彼女は譜面など一切見ないのだった、すごく小さな紙切れに曲のタイトルだけを書いて譜面台にちょこんと乗せ、流れるようなメロディを繰り出すのだった。
 ある晩、彼女は何を思ったのか、私達が「ドンカマ」と呼んでいるリズムマシーンを物すごい早さの8(エイト)ビートにして、バッハの何声、何声だったのかは忘れてしまったが、とにかく難しそうなクラシックを8(エイト)ビートに乗せて弾きまくった事があった……店中総立ちになった、ブラボー!の声が湧き起った……むろんお客の歌の伴奏なんて、譜面なんて一切見もせずに軽々とやっていた、彼女の頭の中にはスタンダードジャズの譜面なんて千単位で入っているに違いなかった。
 彼女は大学を出たばかりで、私と年もほぼ同じ位だった、そして、すごい美人だった、けれど不思議な事に店にやってくる若いエリートサラリーマンにあまりモテなかった。
 今思うに、彼女は立派すぎたのだろう、時々色々な年代の白人の男が店へやって来て、彼女と英語で話し込んでいた、みんな彼女に対して奴隷のように卑屈なまなざしと態度をとっていた。
 「石田さん、私の歌って変?」
 一ケ月もたたない頃、私は思い切って彼女に訊ねた。
 「うーん、別に変ということはないけど……全部ルバートで歌っているみたいね」
 「何ですか、そのルバートって?」
 「うーん、日本語にするとねえ……たしか追分形式というんだと思うんだけれど、つまり、四分の四の曲で、一小節が四拍と決っている曲でも、あなたの場合、それが一小節四拍にならないで、六拍とか、二拍とか、三拍とか、その時によって色々変えて歌っているのよ」
 「そうだったんですか、それでデタラメに歌っているとか言われるんですね?」
 「ううん、私はデタラメとかは思わないけれど……一人でギターを弾きながら歌うんだったらそれでもいいのよ、ただ、他の人の伴奏で歌うとか、バンドで歌うとかいう場合はそれじゃ歌えないけれどね……」
 彼女は本格的なお嬢様だった、少なくとも私はそう思った、育ちの良さからくる謙虚さと思いやりがヒシヒシと伝わってきた。
 私は譜面が全く読めなかった、その上この店に入るまではレコード一枚聞いた事が無いのだ。
 引っ越しをしよう……ピアノの弾ける家に、ピアノを習おう、譜面が読めるようになりたいから……
 それから二ケ月後、私達一家は引っ越した。
 西武池袋線の富士見台という駅、徒歩三分にある小さな一軒家だった、六畳、四畳半、DK、それに古い家だけれど、何と、お風呂まで付いていた、私は生まれて初めてお風呂のある家に住める事になったのだ!。家賃は月三万円、充分払える額だ。
 工場にいた時、恐しい重労働を一日八時間、今は三十分ステージを四回、実働たったの二時間、それでいて貰う給料は三倍以上、休憩時間のコーラは飲み放題……この夢のような生活を維持するためなら、どんな努力でもしよう……私はさっそく中古ピアノを買い、先生を探した。
 「バイエルを一から教えて下さい」
 銀行の伝言板に書いた「求、ピアノ教師、当方初心者」というのを見てやってきた音大生の男の人に私は言った。
 店で、私は相変らず「ルバート」で歌い続けていた、大概のお客はその事に気が付かず、ひたすら私の声を誉めてくれた、けれど、私は心苦しくてたまらなかった。
 「私は詐欺をやってるんじゃないのだろうか?」
 ほとんど神経症的にその考えは私を苦しめた、それに英語の歌の発音だって、石田さんが聞けばムチャクチャな代物に違いなかった、けれど、彼女は決して、ただの一言も、私を批判するような事は言わなかった。彼女はいつも遠くを見るような眼差しをしていた、「こんな人と友達になれたら、どんなにうれしいことだろう……」私はたまに考えるのだった、けれど、彼女と私は住んでいる世界が違うようだったし、それに、ミュージシャンとしての「格」が、絶望的に違いすぎるのだった。
 私は狂ったようにピアノの練習を始めた、平日は四、五時間、日曜日は十時間以上、時々背中が痛くて上半身が腕以外全然動かせなくなる事もあった、だが、それがどうした?工場で苦しかったのとは訳が違うんだ、今の私には目的があって、好きこのんでやっているんだ!。練習のしすぎでいくら体が痛くなっても、苦しいどころか、むしろ心地良い満足感さえあった。
 私の「詐欺師神経症」はレパートリイが増えるのに正比例してひどくなっていった。若いお客の中には学生時代バンドをやっていたという人もいた、そういう人の中で性格の悪そうな奴は、わざわざ私の歌っている隣までやってきて、私の歌っている真っ最中、大きな声で、「あっ!二拍吐いた、あっ!食った、デタラメ歌ってるよこいつ、良く金取れるよね、こんなヒドイ歌でさ、最近の女は図々しいっていうけど、ここまでっていうのはめずらしいよ、あっ!三拍食った、こいつバカじゃないの?……」。そんな調子で延々と言われる事もあった。「食う」というのはバンド用語で、たとえば二拍なら二拍のばして歌う所をすっとばして次へ行ってしまう事、「吐く」というのはその逆で、次の拍から歌い出すべき所をのばしすぎて、たとえば三拍目で次のメロディに行かなければならないのに、そのまま四拍、五拍とフレーズを続けてしまう事を言うのだった。そしてその頃の私はそういう歌い方ばっかりをしていたのだった、そしてそれが自分でも解っているのに、どうしようもないのだ。
 性格の悪いその男の罵詈雑言を聞きつつ私は歌い続け、歌いながら「こいつ殺して、刑務所へ行こうか?」とさえ一瞬考えたりした。
 工場の時とは全然違う苦しみが毎日続いた。
 しかし、信じられない事に、その店では、私はすごい人気者になっていた、私のデタラメ、の歌を聞いて泣き出す人まで時々いるくらいだった。

らいだった。
 あの栄井さんは私の入店以来も時々やって来て、「おう!元気でやってるか?」と言って元気づけてくれた。
 お客に連れられて店の終ったあと、色々なクラブへ行く事も多くなった、ほとんど弾き語り、の入っている店だった。少しずつ弾き語りの知り合いもできてきた。
 星さんというベテランの人とも知り合いになれた、彼は三十代位で、もみあげを長く伸ばした精悍な顔をしていて、ギターも歌も、びっくりする程うまかった、彼がちょっとかすれたシブイ声で「ジョージア・オンマイマインド」なんかを歌うと、どんなにザワついた店でもシーンとなり、居合せた人々はみんな、しみじみと聞き入るのだった、彼はパワフルで、そしてやさしい人だった。彼に会って初めて私は「かけもち、ナイト」というのを知った、かけもち、というのは二軒の店を三十分毎に往復して稼ぐ事で、ナイト、というのはそれが終ってから、夜明け近くまでやっている店で夜中から音出しをして四ステージ歌う事だった。
 「星さんは一ケ月どのぐらいギャラもらってるんですか?」
 私は訊ねた。
 「うん、今月はかけもちとナイトをやってるから、四十五万位かな……」
 「ヒエー!すごいですね、そうすると一軒十五万位貰えるんですか?」
 「うん、大体そのくらいだね……」
 その頃の月四十五万の収入といったら……私は目も眩むような思いがした、それと同時に自分もいつかは……と淡い希望が湧いてくるのだった。
 私はしょっちゅう星さんの“ナイト”で出ている店に通った、コーラ一本と水だけでねばって……彼は色んなバンド用語を教えてくれたり、ギターの色んな弾き方もどんどん教えてくれた。
 私は相変わらずピアノにかじりついていた、習い出して七ケ月程たち、バイエルもほとんど終りのページに行きついた頃、突然譜面の“長さ”だけは読めるようになった自分に気が付いた、私はかなり苦労して、それまでただ歌詞にコードネームをつけただけの譜面?、を、ひとつひとつ、ギターで音を拾いながら、オタマジャクシを書き、小節線をきちんと書き込んだ本当の譜面に直していった。そして、店で歌う時はひたすらリズムボックスの「光」を見た、一小節の頭の一拍ごとに一回ずつ、赤い小さなランプが光るのだった。
 私のデタラメ、は少しずつ改善され始めた。
 まだお客が一人も来ない時、私は石田さんに伴奏してくれないか、と頼んだ、曲は「ジャニーギター」だった、リズムボックスをルンバ、にセットして、イントロは八小節で、と頼んだ……譜面にかじりついて私は歌った、すべてがうまくいった……ただの一ケ所も食ったり、吐いたりしなかったのだ。
 「石田さん、私、大丈夫だった?」
 「うん、全然間違ってなかったわよ」
 彼女は言ってくれた。
 「私、石田さんの歌って一回も聞いた事無いけど……何で歌わないの?」
 「うーん、じゃ一曲歌ってみようか?私のオリジナルなんだけど……今、お客いないから……」
 彼女は歌い出した、むろんピアノを弾きながら……私はびっくりした、彼女の声はあまりにも弱々しく、小さく、蚊の鳴くような声というのはこういう事か、と思ったくらいだった。
 平和を運ぶハトが傷ついて……とかいう歌詞だったけれど、マイクを使っているのにもかかわらず、石田さんの声はあまりにも小さくて、ほとんど良く聞き取れなかった……。 「良い歌ですね……」
 私はとりあえずそう言った。
 「そう?、ありがとう……」
 彼女は相変らず、どこか遠い所を見ているような目で答えた。
 私は八ケ月でバイエルをあげた、そしてすぐに友人の紹介でジャズピアノの先生についた、ジャズピアノはやたら難しかった、けれど私には夢があった、「ピアノの弾き語りになりたい、そして安いベースとドラムスを雇ってトリオを組んで、かけもち、ナイトをするんだ……そうすれば月に六十万ぐらい稼げるだろう……そしてアパートを買うんだ、弟にバイトをやめさせて、好きなだけ勉強できるようにして……母親には掃除婦をやめさせて、毛皮のコートでも買ってやろう……」
 「夢」が私を支えた……だんだんデタラメを歌わなくなっていった、例の神経症も大分楽になってきた、レパートリイも二百は軽く越えていた……そんなある日、私はマネージャーに言われた。
 「君も、もううちへ来て一年ぐらいになるよね……」
 「はい……」
 「そろそろ別の弾き語りに代えたいんだ、やっぱりお客も飽きてくるしね……」
 思いがけない言葉だった、私は……飽きられていたのだ……。
 真暗な気分で星さんのナイトの店へ出掛けた。
 「私、今月一杯でクビになるんですけど、次の仕事のこと、全然考えてなかったんです」
 「大丈夫だよ、ぜいたくさえ言わなけりゃ、ハコはいくらでもあるよ」
 ハコ、というのはバンドマン用語で、出演する店のことだった。
 私はぜいたくを言わなかった、そして、とんでもない遠くのハコに入った、たとえば埼玉の大宮から高崎線に乗り換えて何駅か行った所からさらに徒歩十五分、畑の真中に突然ネオンを光らせて一軒だけポツンと聳え立つ「ホストクラブ」。そして音出しは夜中の十二時から……という所だった。
 広いその店はステージの前にダンスフロアがあり、お客はほとんど家族連れとかカップルとか、男の人だけでくるとか、要するにこのあたりの人々の唯一の社交場らしかった。 そして「ホスト」は?、そんなもの一人も居なかった、ただ若いウエイターとバーテンが十人位いるだけだった、そして彼らはお客の席に座ったりはしないのだ。この辺の人達はホストクラブ、というのを何か完全に誤解しているのじゃないだろうか……。
 「ここ、ホストクラブなんですか?」
 私はウエイターの一人に訊ねた。
 「ええ、そうですよ」
 明るい声で彼は答えた、何の疑問も持っていないようだった。
 仕事は楽で、むしろたのしかった、お客はみんな素朴そうな人達で、私の歌で本当に楽しそうに踊り、私のギターで次々に歌った。その店で、初めて私は前にいた銀座の店が、いかに、色々な意味でものすごいテンションの高い所だったのか、つくづく思い知らされた、前の店ではまずお客が、オーナーが、マネージャーが、バーテンダーまでもが私の歌を批判し、批評し続けていた……。
 その「ホストクラブ」で、そんな事をする人は一人もいなかった、みんなただ無心に楽しもうとするだけだった。
 ただその店は、私にとってただ一つ欠点があった、とにかく遠いのだ、それだけならまだしも、演奏が終るのが午前三時半、それから歩いて駅へ向う、駅には屋根はおろか、ベンチすら無かった、さらに悪い事に真冬だった……誰も居ないプラットホームで、私はガタガタ震えながら何十分も、始発電車がくるまで立ちつくすのだった。
 私は次々にハコを変えた、星さんの言うとおり、ぜいたくを言わなければ何とか仕事は入ってきた。
 あるハコでは、マスターが学生時代バンドでベースをやっていたということで、店にエレキベースとアンプが置いてあり、その人はよっぽど忙しくない限り、私の歌とギターでベースを弾くのだった、最初心配だったけれど、その頃の私は譜面さえ見ていれば、「食ったり」、「吐いたり」するような事は無くなっていて、それにさらに磨きがかかった。 銀座をやめてもう一年位たっていた、ジャズピアノも、スタンダードの五、六曲、がやっと弾けるようになっていた……私は二十四才になっていた。

 昼間、一人で弾き語りの斡旋をやっている老人から電話がかかってきた。
 「錦糸町のクラブなんだけどね……ギャラは月十三万……ホステスのいる店なんだけどね、オタクは化粧もしないし、いつもズボンを履いてるけど……先方はかまわないって言うんだ……」
 「私は絶対お客の席にはつきませんけど……」
 「それはもうわかっているよ、大丈夫、でね、テストの日なんだけど……」
 テストというのはオーディションの事だった、私は楽々と合格した、他に二人、男の弾き語りが来ていたけれど……。
 こうして私は錦糸町のクラブへ通う事になった。

 その店は錦糸町の、クラブとか何とかサロンとか飲み屋とかが何軒もかたまってある一画の中にあった。地下一階で、二十坪程の広さだっただろうか?、内装は古ぼけて、ソファはところどころ擦り切れ、何だか店全体が疲れ果てている……そんな感じがした。
 マネージャーは三十代の、かなりハンサムな人で、こんな人が何でこんな所にいるのだろう?と思うほど紳士的で、知的な感じさえする人だった、バーテンダーは沖縄から出てきたという二十一才の陽気な男の子だった。 そしてホステスは……全部で九人いた、一人を除いて全員三十は越えているな……私は思った、二、三人、四十ぐらいに見える人もいた。
 クラブのホステス、というのから私が想像していたような人は一人もいなかった、お化粧がやたらに濃いのを除けば、華かな感じなど何も無かった、むしろ一人の若い子を別にして、何だかみんなひどくけだるそうで、投げやりな話し方をした、彼女達はひどく疲れているように見えた。
 やってくるお客のほとんどが、やっぱり元気の無い人達だった、中年の人が多かった、彼等はボックス席で「疲れている」ホステスと低い声でボソボソ話し合い、私のギターで二、三曲歌い、そして又、ボソボソ話して帰ってゆくのだった、ここにはあの銀座の会費制クラブ、の緊張感も無ければ、埼玉の「ホストクラブ」にあった素朴な陽気さも無かった。
 通い出して二日目、まだお客が一人もいない時間に、私は声をかけられた。
 「先生、ちょっと歌いたいんですけど……弾いてくれませんか?」
 その店では一人だけ若いホステスだった。 曲は演歌だった、その頃の私は演歌ぐらいなら譜面なんて無くても、それどころか全然知らない曲の伴奏さえ平気で出来るようになっていた、メロディを聞けば次のコードがどうなるのか、ほとんど解るのだった。
 彼女は二曲歌った……むちゃくちゃにひどい音程と、聞いている人の気分を絶対悪くするような変な金切声で……ただ、驚いた事に彼女の歌い方は「ルバート」ではなかった、一拍も食ったり吐いたりするどころか、昔の演歌に特有の、四分の四の曲の途中で突然四分の二の変拍子になる部分もちゃんとクリアした。
 今までずい分いろんな人の伴奏をしたけれど、ほとんどの人が最初の頃の私と同じ歌い方をしていた、けれど、お客がいくら食おうが吐こうがこっちはギター一本だけ、いくらでも上手に帳尻を合せてあげられたので、どこへ行っても私の伴奏は評判が良かった。
 「あなた、ピアノか何か習っているの?」 私は訊ねた、絶対何か習っているに違いなかった。
 「いいえ、ピアノじゃなくて歌を習ってるんです」
 「どの位習っているの?」
 「私、歌手になりたくて、高校出てすぐに東京に来たんです、それからずっと、いろんな先生についたんですけど……今習ってる先生がレコード会社にすごく顔のきく人で、もうちょっと頑張れば、その先生の作曲で、有名な作詞家の人に詞をつけてもらえるんです」
 「へえ、すごいね、それでレッスン料はいくらぐらい?」
 「今の先生はレコード会社にコネがあるんでちょっと高いんです……」
 「だからいくらぐらい?」
 「ワンレッスンが一万円で、月に四回です、たまに五回の時もありますけど……」
 ヒエー!高い、私はぶったまげてしまった、私のジャズピアノだってワンレッスン二千五百円しかしない……。
 「あなた、今いくつ?」
 「二十一です……」
 「名前何だったっけ?」
 「ミツコっていいます、本名じゃないです。香水の名前からとったんです」
 私は考え込んでしまった、多分彼女は騙されているに違いない、演歌の世界は全然知らなかったけれど、そういう話はたまに聞いた事があった、彼女の歌を聞いて、プロになれると思う人は、おそらく一人もいないだろう。それに、ルックス、彼女の顔は店にいる全然美人じゃない中年のホステス達の誰よりも落ちるのだった。しかし、彼女は、いや、彼女だけがその店のホステスの中で明るかった、きっと「夢」があるせいなのだろう、それがはたから見てどんなに絶望的なものに思われたとしても、それが彼女を支えているのだろう。
 私はその店では「先生」と呼ばれていた、マネージャーさえもがそう呼んだ、最初のうち恥しくてたまらなかったけれど、こういう世界では一種の符牒なのだと思って、すぐ慣れた。
 一週間ぐらいしてホステスの名前もほぼ全部覚えた頃、私は彼女達が二組に別れて対立しているらしい事に気付いた。
 お客が来るまでの時間、彼女達は必らず店の両端にわかれて座るのだった、最初のうちは気にもしなかったが、まず、いつもそれが同じメンバーだということ、四人と五人にわかれていて、四人の方のリーダーは「絵理菜」さんという人で、五人の方のリーダーは「雪乃」さんという人だということ……。
 彼女達は絶対に口をきいたり話をしたりしなかった、絵理菜派と雪乃派はお互いのメンバー同士でいつも世間話をしていた、そして時々お互いの対立相手に向って「聞こえよがし」的な大声で厭味とか皮肉らしいことを言うのにも気付いた。
 それを聞いていても、一体何で彼女達がそんなに激しく対立しているのか、原因はさっぱりわからなかった。
 ミツコは一応雪乃派に所属しているらしかった、けれど彼女一人は他のホステスとは違って、絵理菜派に対して別に何の悪意も持ってはいないようだった。
 そんなある日、お客がけっこう入っている時だった、絵理菜さんがふと思いついたようにマイクを握った。
 「先生、一曲歌わしてよ……」
 曲はブルーノートが入った歌謡ブルースだった。(ブルーノートというのは、たとえばド、で始まる音階ならば、ミ、とシ、が半音下がる音階の、その半音下げた音のことをいう)
 私は適当なイントロを弾き、彼女は歌い出した……あまりのうまさに鳥肌が立った、私はそれまでどこへ行っても「声」をほめられ続けてきた、あの星さんでさえも、「君の声と音程の良さはひと財産だよ、それにフィーリングもすごく良い」といつも言ってくれていた、そしてそれまでのべ何千人という人数の人達の伴奏をしてきたけれど、中にはけっこううまい人もいたけれど、しょせん、プロである私や星さんクラスの人などいるわけがない……と思っていた、それが、いたのだ! 彼女は私や星さんよりうまかった……私の声はソプラノ系だったけれど、彼女の声はアルトで、こういうのをベルベットボイス、というのだろうなというような深みのある、そして艶のある、聞いているとどんどん引き込まれるような素晴らしい声をしていた、音程も完璧で、ブルーノートのとり方、歌の説得力、表現力、どれをとっても私はかなわないと思った、そして伴奏をしている間中、感動のあまり鳥肌が立ちっ放しだった。
 ただ、彼女の歌い方はやっぱり「ルバート」だった。
 彼女は歌い終るとさっさと客の所へ戻って行ってしまった、年は三十三、四ぐらいなのだろうか?、背が少し低く、丸顔で、全体的に小太りだった。
 私は拍手した、人の伴奏をして何千人、初めての事だった……そこへミツコがやってきてマイクを握った、私は少しミツコを憎んだ、相変らずのひどい歌が始まった……。

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