(四) その後三日目に、彼女は暗譜で完全に歌えるようになった、次はバンドのアレンジ譜だ。 私は星さんに久々に電話して、どこかに安いアレンジャーがいないか?、と相談した、バンドの編成を言うと星さんは「9(ナイン)ピースだね」と言った、初めて聞く言葉だった。 「六本木でかけもちナイトやってるピアノがいるよ、その人ならやるんじゃないかな?」 「へえ、ピアノでかけもちナイトですか?」 「うん、彼アパート二軒持ってるらしいよ、古い人だからね……」 アレンジャー、は六本木にある大きなレスビアンクラブで、ナイト、をやっていた。 歌もピアノもあまりうまくなかった。「この人ぐらいでもアパート二軒持てるのかD」私は安心した、そして紙を二枚差し出した。 「あの……9(ナイン)ピースなんですけど……それと、これがCメロなんです……」 彼は私の書いた譜面をじっと眺めた、ちょっとドキドキした。 「キイ、は何なの?」 彼は半分白髪の頭をちょっと傾げた。 「あの、今はとりあえずAマイナーで歌っていますけど……」 「あのね、これだけ管楽器が多い場合はね、ふつうフラット系にするんだけどね……」 「ああ、そうですか、知りませんでした、じゃ、半音上げてBフラットマイナーにして下さい……」 「Bフラットマイナー……ね」 彼は私の譜面にそう書き込んだ。 「あの……それからですね、イントロと間奏は両方八小節にして、全く同じフレージングにして下さい、これ2(トゥ)コーラスしかありませんけど、そのあとサビから歌ったりしませんからそのままエンディングにして下さい、エンディングはなるべく派手に、何小節でもかまいません」 「何か変った注文だね……何でハーフやってサビ歌わないの?」 「いや……色々事情がありまして……」 「ふーん、そうなの……」 彼はそれ以上何も聞かず、私の注文を次々と書き込んでいった。 「あの……おいくらでしょうか……」 「ああ、アレンジ料ね、スコアだけで良いの?写譜屋さんに出すんだろ?」 「えっ?、それはどういう事ですか?」 私はあせった。 「ああ、君何も知らないのね……、あのね、アレンジっていうのはふつう、スコアだけ書いて、それを写譜屋さんに出して、パート譜を作ってもらうもんなんだよ……僕はパート譜も書けっていわれれば書くけどね、どうするの?……」 「あ、あの、パート譜書いて下さい……」 「ああ、そう……じゃD(二)万でいいよ、出血大サービスだ……出来たら電話するから、譜面取りに来た時払ってくれればいいよ」 「宜しくお願いします……」 私はフラフラと六本木の街を歩いた。このアレンジ料を絵理菜さんに請求すべきかどうか?、多分彼女はそんなにお金がかかると知ったら、やめる!と言い出すだろうな……それに彼女がもし失敗したら……恨まれるかもしれない……やっぱり自腹を切るしかないだろう……けれど、私はなぜこんなにも夢中になって苦労して、彼女を「歌手」にしようとしているのだろう?、確かに絵理菜さんは「天才」だ、けれどなぜこの私が……いや、この私だけが今のところ、彼女の才能を知っている唯一の人間なのだ……世界中で唯一人。 帰りのタクシーの中で私は考え続けた。 「誰でもいいからこの私、連れて逃げてよ……」 頭の中で思わず口ずさんだ、そうだ、私はどこかへ逃げ出したいのだ、できる事なら絵理菜さんも連れて……。 アレンジ譜が出来てきた……私はそれを必死で「解読」し、特訓を始めた……。 「あのね、最初トランペットから出るからね、とにかく一二三四、二二三四、と数えて、四二三四まできたらもう一回同じように数えて、歌ってね、間奏も全く同じだから、同じに数えて二番歌ってね、じゃ、その通りの長さで弾くからね!」 絵理菜さんは表面いやいややっているように見えたけれど、「やる気」が出ているのは手に取るようにわかった。 キャバレーに出演の日取りが決った。私はその日のために「トラ」(ハコで一日だけ代りに出演する人の事)を探した、五千円で一人見つけた。 絵理菜さんの出演日の二日前、店に行くと、雪乃派のメンバーに囲まれてミツコが泣いていた……雪乃さんが何か言ってた。 「どうしたんですか?」、私は聞いた。 「どうもこうもないのよ!」 雪乃さんが言った。 「先生が……いなくなっちゃったんです……」 ミツコは泣きながらそう言った。 「ほかの女の弟子と駆け落ちしたんだってさ」 メンバーの一人が言った。 「じゃあ、そのディレクターというのには会ったの?、会わせてもらったの?」 「いいえ、まだです、お金は払ったんですけど……」 ミツコは言った、それから急にむせび泣きになった……。 「ミツコちゃん、今日はもう帰りなさい、それじゃ仕事になんかならないだろう?」 マネージャーがそう言い、ミツコは泣きながら頷き、そのまま帰って行った。 私は同情するどころか腹が立った、その「先生」という奴と、それからミツコにも。 「さあ、絵理菜さん、レッスンしようよ、あと二日で本番だからね……」。 絵理菜さんの「本番」の日が来た。 私は打合せ通りに夜の六時にその蒲田のキャバレーへ入った、正面から入ると金を取られると聞いていたので従業員用の裏口から……、絵理菜さんはもう来ていて、隣に痩せた若い男が立っていた。 「これ、ウチの……」 彼女はまだ私が見た事のないラメ入りの黒いドレスを着ていた。 「どうも……初めまして、ウチのが御世話になっているみたいで……」 絵理菜さんの旦那は黒いタキシードを着ていて、やたらと腰の低い人だった。 七時ちょっと前にバンドが楽屋に入る、その時挨拶をしてバンマスに譜面を全部渡してくれ、七時から一ステージが始まる、それはバンド演奏だけで、二、三、ステージでショウが入る、そして四ステージが又バンド演奏になる……彼は説明してくれた。 「じゃあ、絵理菜さんが歌うのは?」 「一(ワン)ステージ目が良いでしょうね、最後の曲の前に……僕が司会しますから……そしたらウチのが出てきて……」 「宜しくお願いします……」 私は譜面の束を握ったまま頭を下げた。 七時ちょっと前、次々とバンドの人達がやって来た、私は彼に言われた通りにし、ダンスフロアの真ん前、一番前の席に座らせてもらった。すぐに演奏が始まった、歌謡曲をマンボとかルンバとかにアレンジした曲が続いた、私はてっきりジャズをやるのだと勝手に思い込んでいたので少し驚いた。 ピアノの人は六十以上に見えるお婆さんだった、ドラムスはほとんど高校生にしか見えない神経質そうな少年だった、あとの人はみんな中年位で、バンマスは五十才位かな、と思った、その頃の私にはその演奏がうまいのかヘタなのか、良く解らなかった……絵理菜さんは楽屋に引っ込んでいる……私は心臓がドキドキしてきた……何度も時計を見たD。 ついに絵理菜さんがステージに出てきた、ピンスポが当り、ラメのドレスが光った、彼女がマイクを握るのと同時に司会の彼が叫んだ。 「本日の特別出演、高橋絵理菜!お送りいたします曲は、ダウンタウンブルース!」 イントロが始まった、私はほとんど祈るような気持ちでそれを聞いた、八小節だ!、四小節が二つだ!、数えてくれ!、私が言った通りにすればいいんだ! 彼女は間違えなかった、寸法通りに歌い出した、素晴しい声とフィーリングだった、これが本当に自分が作った歌なのだろうか?と思う程だった、私はハラハラしながらもうっとりした、いつの間にかダンスフロアにいた三組がチークダンスを始めている……彼女は落ち着いて歌っているように見えた……ついに彼女は一番を歌いきった、さあここから八小節の間奏だ、イントロと全く同じフレーズだ、私がそう思ったとたん、トランペットがいきなりものすごい調子外れの音を出した、それにつられたのだろう、一瞬バンド全体がグシャグシャになった、私も拍を数えられなくなった、やっと五小節目に何事も無かったように、テナーサックスがイントロと同じフレーズを吹き始め、私も拍に乗ることが出来た、しかし、絵理菜さんは……八小節が終る……歌だ、歌の番だ!……彼女は出られなかった、マイクを持ったまま立ちつくしている、危ない!。 二番の歌詞は、「行くとこの無いこの私、誰か抱いてよ……」と始まるのだ、二小節待って、私はいきなり大声で客席で歌い出した、「誰か抱いてよ、強くやさしく、あたたかく……」 私の声は聞こえないのだろうか?……バンドの音に紛れてステージの上にいる彼女に届かないのだろうか?……彼女は歌い出さない……私はほとんど絶叫するように客席で立ち上がって二番を歌い続けた、彼女は歌わない……ダンスフロアでチークを踊っていた人達が変な目で私を見る、そして次々に客席に戻ってゆく……彼女は歌わない、眉間にちょっと皺を寄せて、もうマイクは下に降したままだった……二番が終った。私の注文通りの派手なエンディングが長々と始まる……私はソファにぐったりと座った。 拍手ひとつ貰えず引っ込んだ彼女を追って私は楽屋に飛び込んだ。 「絵理菜さん!私の声聞こえなかった?」 「ああ、聞こえたよ……」 「じゃあ、何で二番歌わなかったの?」 「だって、格好悪いじゃない、途中から歌うなんてさ」 彼女はそう言ってタバコを銜えた。私は呆然として黙った。しばらくの間沈黙が続いた。 「あたし、間奏の所でわかんなくなっちゃってさ……そのあと頭真白になっちゃってね、先生の声は聞こえたけれど、二番の歌詞も良くわかんなくなっちゃったんだよ……」 タバコを吸いながら彼女はちょっと済まなそうに言った。 「あの間奏、ヒドイよ!、絵理菜さんのせいじゃないよ!」 私は叫んだ。 「いいんだよ、もう……」 絵理菜さんはそう言って又黙った、ステージの方から聞え続けていたバンドの音が「ワルツ」に変る、それまで楽屋の隅でポーカーをやっていた四人の男が腰を上げ、ステージに出て行く……バンドのメンバーが次々に楽屋に戻ってくる……。 私は絵理菜さんと二人で蒲田の駅近くのラーメン屋に入った、私はラーメンの他にビールを注文した。 「あら、先生は一滴も飲めないって言ってたけど?」 彼女がそう言った。 「ああ、あれは営業用、どこの店へ言ってもそう言ってるんだ……本当は強いんだよ」 私はビールをガブ飲みした、あのバンマスは、自分がとんでもない事をしたのに、それがどんなに大変な事をやらかしたのかにも気付かず、「又、今度歌いにきなさいよ」なんて気楽に絵理菜さんに言ってた……私は譜面を全部返してもらった。 「絵理菜さん……歌手になる気……無いよね?……」 「…………」 彼女は何も言わなかった、二人で黙ってラーメンを啜った、突然彼女がポツリと言った。 「あたしね、子供が欲しいんだよ……もっとも今の生活じゃ生む訳にいかないけどさ」 私はびっくりして言葉が出なかった、この“天才”はこうやって埋れてゆくのか……。 帰りの電車の中で「ダウンタウンブルース」のフレーズがとぎれとぎれに頭の中に浮かんだ、「 ここは下町誰も翔べない……」 イヤな歌を作ってしまった……と思った。 それから数日後、店に行く前に電話が入った、弾き語り専門のプロダクションからだった、六本木で「かけもち」の仕事のオーディションを受けてみないか?という内容だった。ギャラは一軒月十四万、合計二十八万になる、ただし競争相手は多い、六、七人は楽に来るだろうという事だった。 「負けるもんか!」、私は心の中で叫んだ。そして私は勝った。来月からは再び都心であのギラギラしたテンションの高い世界で、初めての「かけもち」をやるのだ。あと二週間ぐらいで今の店をあがる事になる、そして又、別の弾き語りが私の歌っていた場所で仕事をするのだろう……。 その店で仕事をするのはあと一週間足らず、という時だった。まだお客は一人も入ってこない……相変らず敵対する二つのグループは別れて座り、雪乃派の中でミツコが何やらはしゃいでいた。 「ミツコちゃん、どうしたの?、何かうれしそうだけど……」 私は不思議に思って声をかけてみた、以前あんなに騙されて泣いていたのに、一体どうしたのだろう……。 「ああ、先生、私、今度すごい「先生」に認められたんです!」 「何?、そのすごい先生って」 「○○レコードの専属なんです、私の歌を聞いて、それで門下生にしてやるっておっしゃるんです」 彼女の声は弾んでいた、そしてその「先生」と、その人がヒットさせた曲というのを口にした……両方共聞いた事も無かった、もっとも私が演歌の事を良く知らないせいかもしれないけれど……。とにかく私は驚いた、一体どうやって次から次へとそんな怪し気な「先生」を、どこから見つけてくるのだろう?。そして、彼女は一生「夢」を追いかけ続けるのだろうか、どんな犠牲を払ってでも……私は考えた、絵理菜さんにこのミツコの情熱の十分の一でも良い、ミツコの見ている「夢」があれば彼女はとっくに……私はぼんやりとそんな事を考えていた……。 「何だか上の様子がおかしいな……」 マネージャーが言った。 地下一階のこの店の階段を上った所はアスファルトの道路というか、ちょっとした空き地になっている……そこから何か人の声のようなものと、人々のざわめき、のようなものがかすかに聞こえてきた。 「ちょっと見てくるわ。」 マネージャーは階段を上って行った。すぐその後に私も上へ行ってみた。 その空き地にはちょっとした人だかりが出来ていた……みんな近所の店のバーテンだのホステスだのといった人達だった、そしてその人だかりの真ん中にちょっとした空白があった、そこに一人の老人が立っていた、彼は痩せこけた体に穴だらけのセーターを着て、やはりボロボロの穴だらけのコーデュロイのズボンを履いて、汚い素足にビーチサンダルを履いていた、彼は目が両方共潰れていた。 そして彼は歌を歌っていた、両手でギターを弾く真似をしながら……イントロも間奏も全部、彼は口で言った。 「チャンチャカチャンチャカチャンチャカチャンチャカチャン……」 見えないギターを弾いている彼の指は両手共、何か関節の病気なのだろうか?、数本ずつ変に捩じ曲っている……彼はひたすら歌い続ける……何も言わずに……歌は、昔の歌謡曲だった、歌い方は「ルバート」だった、そして声は良くなかった、嗄れきった老人の声でしかなかった、ただし音程だけは良かった。 彼の前には紙の箱が一つ置いてあり、既にその中にはかなりの数の百円玉や五百円札、それに千円札まで数枚入っていた。 「この金取られるといけないから、俺、ずっと見張っている!」 一人の見物人の男がそう言って老人の横に立った。 「ここは下町だからね……みんな人情があるんだよ……」 私の隣りに立っていたマネージャーは、誰に言うともなくそう言い、千円札をそっと紙の箱に入れた、気がつくと私の店のホステス達もみんな出てきて一かたまりになっていた、絵理菜派も雪乃派もなかった、彼女達もそれぞれ百円玉を箱に入れた。 一曲終るとみんな拍手した、老人は何一つ言わず次の曲のイントロ、「チャンチャカチャン……」を始めるのだった。 私は呆然と立ちすくんだまま、拍手もせず、金も入れず、一人でそっと店の中に戻った。 誰も居なくなった店内で一人、私は考え続けた。 「なぜ私は拍手をせず、金も出さなかったのだろう、なぜ?」 かすかに上の方から老人の声がとぎれとぎれに聞こえていた……。 とうとう月末になった、明日からは六本木でかけもちが始まるのだ、四ステージを終ると私はマネージャーに、そして居合せたみんなに挨拶をした。 「どうもお世話になりました、みなさん頑張って下さい……」 それから家から持ってきたギターケースにギターを入れた。 外に出るとざんざん降りの雨だった、私はギターを持ち、大きな傘をさして人気の無い夜道を駅に向った。しばらくすると前方に一人の小柄な男が一人、傘を持たずに背を丸めて歩いているのが見えた、半纏を着て、下はニッカポッカ、土木作業員か何か、とにかく肉体労働をしている人に違いなかった。 私は早足になり、その人に追いついた、そして傘を差しかけた。 「駅まで入って行きませんか?」 その人はちょっと驚いたようだった、私の方を素早く見た、それから静かに言った。 「姐さん、アンタいい人だねえ……」 「いえ、そんな事ありません……」 「姐さん、アンタ流しかい?」 彼は私のギターケースが目についたのだろう。 「ええ、似たようなものです……」 「そうか……頑張ってくれよな……」 「はい、頑張ります」 私は答え、その人と別れて錦糸町駅のプラットホームに立った。 しばらくすると雨粒をキラキラ光らせながら上り電車がやってきた。 都心へ向って行く電車だ。 (完) 前の章(第三章)に戻る |