連載一 日本橋三越の天女


「あのー、そちらに大きな仏像がありましたよね」
「いえ、仏像ではなく天女です」
「ああ、あれは天女だったんですか…昔見たことがあって、また見に行きたいなと思って…」
「ああそうですか」

 電話に出た女性はなんだか冷たく事務的に応対してくれた。でも一応日本橋三越本店にその巨大な像があることは確認できた。たしか中学生のとき、出来立てのそれを見た記憶があるのだ。てっきり仏像だと勘違いしていたが、天女の像だったのだ。

 ぼんやりとした記憶の中にあるのはとにかく色鮮やかで、目が眩むようなきらきらしさで一階のホールの吹き抜け部分にそびえ立っていたことだ。

 さっそくドラムの瀬山くんの車に乗って出かけることにした。
 たしかにそれはあった。四十年数年たっての再会ではあった。しかし、中学生の時見た圧倒的なきらびやかさ、色鮮やかさは無く、どんな材料を使っているのか解らないが全体的に時代がついた…とでもいうのだろうか渋くややくすんだ印象になっていた。

 三越本店のホールでその像をしげしげと見上げる人は私と瀬山くんの二人だけ、誰もが見飽きているのだろうか、働いている人も買い物客も「関係ありません」という感じだった。像の台座の近くにパンフレットが置いてあり、それを見ると昭和三十五年、十年の歳月をかけて完成、作者は佐藤玄々氏と書いてあった。おそらく有名な人なのだろう…そしてこの天女は「まごころ」という名前だということも分った。

 しかし…何かがというか何もかもが違う…昔見たときこの天女像はもっと巨大なものに感じられたし、この三越本店も全体が新しくどこもかしこもぴかぴかに光っていたような気がする。歳月というものが全てに、おそらく空気までにも「時代」をつけたのだろう。

 そんな感慨と共に日本橋を後にしてそのまま両国の江戸東京博物館へと向かった。最近江戸時代に関する本などをまとめて読んだりしてちょっと興味があったからだ。

 その建物こそ「えっ?」というくらい巨大なコンクリート造りで、中に入るとどこもかしこも出来たての真新しさでキラキラと光っていた。建物の内部に江戸時代の歌舞伎小屋「中村座」の正面入り口が原寸大で再現してあった。屋根の中央上には紺色の幕を引き回した櫓が乗っていた。そしてその下には左右にずらっと芝居の場面を描いた絵看板が並んで飾られていた。まだ見たことが無いにもかかわらずこの風景はなんとなく想像通りのような気がした。そして次々と色んな物を見ていくうちに大名屋敷の模型があった。これはもちろん原寸大ではなく、縮尺したものにすぎなかったけれど、その大きさ、規模、豪放華麗さにうなってしまった。さっき見た中村座などは間口から類推してもその全体がこの巨大なお屋敷の庭の片隅にでもすっぽり収まりそうなのだ。

 江戸時代の大名の格式がいかにすごかったというべきか、あるいは歌舞伎というものを支えて現代まで残る文化を創って維持し続けた町人のセンスと意気込みがすごかったというべきなのか、私はその大きな模型を見ながらしばし考え込んだ。その後も色々な模型とか江戸時代の長屋の原寸再現などを見て最後のあたりで今度は江戸時代の歌舞伎舞台の原寸大の再現というのを見た。見て驚いた。あまりにも狭いのだ。間口も奥行きも。私はけっこう歌舞伎ファンで、二十代の頃からもう何回行ったのか数え切れないほど現代の、あの東銀座にある「歌舞伎座」へ通ってきた。そして何もかも無意識のうちに「歌舞伎」というものはそういうものだ、と思い込んでいた。その「常識」を根底から覆すのが江戸時代の歌舞伎舞台の「間口」だった。現代の歌舞伎座の四分の一も無いように見えた。舞台上には「助六」の場面が衣装を付けた等身大の人形によって再現されていたが役者のラッシュアワーのようにも見えた。私が今までそう思っていた歌舞伎の助六ではなくて、今でも沢山ある小劇団の舞台のような感じもした。そのうえ芝居が大当たりすると江戸の歌舞伎では舞台の上にまで観客を座らせたと最近読んだ本には書いてあったから、さらにその上に客が何人も座っているところを想像してみた。

 おそらく江戸時代の人たちにとって芝居を観に行くという事は現代人が演劇を鑑賞しに行くという行為とは全然違う行為で、新作を除いて戯曲のストーリイなどはみんなが知っていて常識みたいになっていて、だからつまり、役者を見に行く、そして役者と同じ場所にいて時間を共有する。それが芝居小屋へでかけるあたりまえの理由だったのではないか、などと思った。

 帰りの車の中でも私はそんな事を考えていた。江戸時代当然電気照明などは無い。だから芝居は朝から夕方まで、窓から入る太陽光だけがたよりだった。だとしたらあのサイズは自然で、というか限界だったのかもしれない。今の歌舞伎座の大きさだったら暗くて何にも見えなかっただろう。私はやっと納得がいった。そのせいかその日最初に見た日本橋三越の天女像のことをまた思い出した。

「人間五十年 下天のうちを較ぶれば 夢まぼろしの如くなり ひとたびこの世に生を受け 滅せぬもののあるべきか」

 時代劇の中でよく織田信長がこういうフレーズを謡いながら扇を持って舞ったりしている。信長が本当にこういうことをしていたのかどうかは知らないが、下天というのは天人の中の一番下の階級でそれですらその天人の一日が、人間にとっての五十年に相当する。まあそういう事を言っているのだ。あの日本橋の「まごころ」という天女がはたして上天なのか下天なのかは解らないが、もし下天だとしてもあの場所へ降り立ってからまだたったの一日も経っていないのだ。


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