連載二 二つの万国博覧会


 遅かった秋がようやく訪れた。そんな頃。テレビから愛知万博閉会のニュースが流れてきた。
「…千五百万人の予想入場者数を大きく上回り、最終日に二千二百万人を超え、今日閉会しました…」

 アナウンサーは殺人事件の原稿を読みあげる半分ほどのパッションで、淡々と「愛・地球博」の閉会を伝えていた。
 秋らしい空があったのかどうなのか、思い出す間もなく、いつの間にか冬が訪れた。そんな頃。

 愛知万博の閉会を告げたテレビの画面に、まんまるい顔が映しだされた。太陽の塔の顔だった。番組は岡本太郎が太陽の塔の制作を引き受けた時のエピソードを、当時の映像を見せながら伝えていた。

「人類の進歩と調和」

 これが大阪万博、正式には日本万国博覧会のテーマだった。
岡本太郎はこのテーマが気にいらず、テーマをぶち壊す気で太陽の塔を制作したらしい。太陽の塔はパイプで組み上げられた巨大な屋根の中心をぶち抜くように建てられたが、屋根に穴を開けたのは岡本太郎のごり押しだった。そんなエピソードが語られていった。

「自然の叡智」

 これが愛知万博、愛・地球博のテーマだ。
「人類の進歩と調和」の目玉は月の石だった。三十五年の間に人類はずいぶんと進歩と調和をしたらしく、ついに「自然の叡智」に目覚めて展示されたのが冷凍マンモスという訳だ。月の石も冷凍マンモスも何の役にも立たない見世物という意味においては、似たようなものだと思うけど、テーマは変ったものだ。

 大阪万博のテーマはあくまで強気だ。傲慢だ。人間の驕りを感じてしまう。対して、愛知万博のテーマはかなり弱気だ。後ろめたいような、怯えているような、そんな感じがする。三十五年の間に社会がどう変化し、人々の意識がどう変ったかは、あえて書くまでもないだろうが、あまり進歩していないし、ぜんぜん調和してないことは、確かだろう。

 岡本太郎が気にいらなかったは、進歩だろうか、調和だろうか、それとも、人類だろうか。ひょっとしたら、一切合財何もかも気にいらなかったのかも知れない。確かに、七十年という時代を考えれば、「調和」にクエスチョンを持った人は多かっただろう。ベトナムでは意味のない戦いが、多くの命を奪っていた。そんな時に、理想であるのを承知しようが、「調和」の名の元に、アメリカが巨額の費用を費やして持ち帰った月の石が、ありがたそうに飾られる博覧会はかなり能天気だ。

 それでは、「進歩」はどうだろうか。「進歩」はこの時代、少なくとも八十年代が終るまでは人々の幻想として機能していた、のではないだろうか。

 進歩は幻想に過ぎない。

 そんな漠とした考えが間違いでないと知ったのは最近のことだ。人間というものは過去から未来へ、不可逆的に進歩して行くものだという幻想は民主主義の成立以後できた考え方らしい。それ以前はどうだったかというと、進歩と民主主義の発明者であるヨーロッパのスタンダードは「復古」であったのだ。簡単に言えば「今は悪い時代だが、昔は良かった。あの良かった時代に帰ろう」ということだ。理想の社会は未来にある、と人類が考え出したのは、つい三百年前のことだったのだ。

 今や、進歩という幻想が人類創世記からあったかのように信じている欧米人、そして日本人も、ついこの間まで「昔は良かった」で生きていたのだ。進歩という幻想は何時か行きづまる。今を覆う閉塞感がその幻想に裏打ちされているのは明らかだろう。かといって、手ばなしで帰りたい昔も持てないのが、今の日本人ではないだろうか。

 そんな閉塞感からか、江戸開府四百年だかは知らないが、相変わらずの江戸ブームだ。環境問題から江戸のリサイクル社会を評価する試みも盛んだし、江戸時代そのものの再評価も進んでいる。

「進歩的」「民主的」という言葉が大好きな人達が、ちょっと前まで文化人と称していっぱいいたが、最近はどうなのだろうか。そんな人達が大好きな言葉に「封建的」というのもあった。過去の因習や常識を否定する時に良く使われたものだ。

 江戸時代について知れば知るほど、あの「封建的」って、何だったのだろう、と疑問符をつけたくなってくるのだ。ヨーロッパの封建制と日本の封建制は大きく違う。というか、律令制終了後、明治維新までを誰かが封建制といっただけの話だ。封建領主が多大な権力で領民を支配していたヨーロッパの封建制と違い、日本の江戸時代の殿様はずいぶん無力だった。改易(取り潰し)でクビになったり、転封(国替え)で左遷させられたりした訳で、封建領主と呼んでいいのかどうかも分からない。江戸も中期になると商人が力をつけ、多くの殿様は借金で貧乏になっていったから、経済的には資本主義であったと主張する人もいるくらいだ。

「封建的」が好きな人が何を言いたいかは、大体分かる。封建的身分制度を批判したいのだろう。しかし、その中に誤解と無理解が隠れていることも知らせておきたい。

 江戸時代、武士は夫婦一緒に外を歩くことはなかった。やむを得ず同行する時は道の右と左とを、お供をそれぞれ連れて別々に歩いた。その理由はというと、一緒に歩くと婦が夫のお供になってしまうからだ、というのだ。武士の社会では主人が表を、主婦が奥を守り、奉公人もそれぞれが持ち、口出しはしなかったのだ。夫婦は一心同体であり、婦が夫のお供に見えてはいけない。婦は夫の奉公人ではない。故に一緒に歩かなかった、というのだ。

 こういう話を読むと、ますます「進歩」より「復古」に心が動くのは、私だけだろうか。 


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