連載三 「走馬灯」の品川
私は東京は品川の出身だ。十三才までそこで育った。父親の死によってその町を離れるまで私にとってその品川の旧宿場町の商店街が基本的に「世界」だったような気がする。
今はすっかりさびれているその商店街も昔、私が育ったころはすごく活気があって賑やかな町だった。
今考えるとほとんど信じられないような格好をして私は小学校に通っていた。たとえば冬などはスカートを穿いてその下にモモヒキを穿き、さらに足袋を履いて下駄を突っかけて通った。別に私だけが変な格好をしていたわけではなく、みんながそうだったからだ。
もちろん戦前の話ではない、私は戦後の生まれだ。それでもその戦後間もない時代は都内のような都市部でもそんなものだったのだろう。さらにそのころ女の子にパーマをかけるのが流行っていて、私も母親に「パーマ屋さん」に連れていかれ第二次大戦直後のハリウッド女優のような髪型にしてもらったりした。ハリウッド女優のヘアスタイルでモモヒキに足袋に下駄履き…今考えると本当に物凄いファッションだ。でも誰一人それを不思議がる人も無く、活気はあるものの町中のんびりとみんな暮らしていたように思う。
子供のころの私は遊ぶのに忙しかった。
まず学校の帰りに必ずといっていいほど近所の駄菓子屋に立ち寄った。お菓子を買うのではなく、夏ならトコロテンとかかき氷、冬場ならお好み焼きとかおでん、そういうものを食べるためのちょっとしたテーブルとか椅子が置いてあって、そこでその店のおばさんと話をしながら食べた。まるでサラリーマンのお父さんが会社帰りに赤提灯で一杯やるのと同じだ。そして家に帰ると映画に行くか縁日に行くか、どっちかだった。
映画館は近い所だけで三軒もあった。そしてやたらに大小のお寺がいっぱいあったので、どっかしらで縁日をやっている日が月の内十日くらいは、あるいはそれ以上あったような気がする。
うちの親はお小遣いをかなりふんだんにくれた。一ヶ月いくらと決まっているお小遣いのほかに、映画に行くと言えば入場料、縁日に行くと言えばほぼ同じくらいのお金をくれた。ただし映画の場合はそのタイトルを言わなければならなかった。一回だけタイトルを言って「その映画に行ってはいけない」と言われてお金を貰えなかった事がある。「肉体の門」という題だった。そのとき私は「肉体」という言葉が良くないのだろうな…と思ったけれど、なぜ、またどうして良くないのかさっぱり見当が付かなかった。
今思い出すとそのころの私はいつも一人であちこちへ行って遊びまわっていたような気がする。現在と違って子供に危害を加えるような人間はいなかったのだろう。私は幼稚園にも当然のように一人で通い、その帰りには一人で遊び回っていた。毎日のようにそうしていてちょっと危ないなという目に遭ったのは二回くらいあることはあったが、現在と比べれば危険度の桁がちがっていた。
アセチレンライトに煌々と輝く夜店が延々と連なる縁日の夜、行き交う人々の列の中で私はいつも陶然としていた。ライフイズビューティフル…そんな感じだった。
遊びまわるだけではなく、よく「お使い」にも行かされた。私の母は料理が下手で、その上何でも売っている商店街の真ん中に住んでいたため、基本的に「おかず」というのは買ってきて食べるものだと、それが普通なのだとそのころの私は信じて疑うこともなかった。
私が小学生のころはまだみんなが「カフェ」と呼んでいた遊郭が営業していた。買い物籠を下げてその前を通る時、いつも一体何をやっている店なのだろう?と不思議に思った。赤や紫の灯りの下にお化粧をした女の人達がいっぱい立っていて、男の人が通り掛かるとみんなで取り囲んでその「カフェ」の店内に連れ込んで行く。連れ込まれる男の人は大概嫌がっているように見えた。
「もっと全力で抵抗したら逃げられるのではないか?」私はちょっと不思議だった。でもその光景を見るのは何だか楽しかった。だからお使いに行くとき、たとえば肉屋なら肉屋ですぐ近くにあるのに、わざわざその「カフェ」がいっぱい並んでいるところの肉屋に行くようにしたりして、なるべく夜そのあたりに居るようにしていた。その光景が何をやっているのかは解らないものの、一種のお祭りとか縁日のような気がしたからだ。
時には一人で都電に乗って芝の増上寺の敷地内にある原っぱで遊んだりもした。
品川の商店街には「自然」というものがほとんどなかったからだろう。おそらく無意識で草とか樹木とかに飢えていたのかもしれない。
そんなある日、いつものように増上寺にいったら工事が始まっていて立ち入り禁止になっていた。しばらくしてそこに「東京タワー」が完成してしまった。ホントにつまんないもんつくりやがって…と心から思った。
でも結局のところ私は生まれてからこのかた街中での暮らし以外を知らないせいか、「大自然に囲まれて!」とかいう場所に行ったらどうやって生活すればいいのか皆目分からず、さらにその上さみしさと退屈で精神状態が悪くなるのは目に見えている。
今は高円寺に住んでいる。ピカピカつるつるした駅ビルとかが無い町で、すごく生活感に溢れていて、かつ賑やかに街全体が躍動しているような雰囲気がとても好きで気に入っている。遊郭こそ無いものの私の育ったころの品川の町となにか似ているような気さえする。
今、私も充分いい年になった。けれども決して忘れられない原風景のようなもの、それが駄菓子屋であり映画館であり、縁日の延々と連なる夜店であり、ちょっと不思議な「カフェ」であり、それらの光景が走馬灯のように脳裏をよぎる。私の幸せな時代の象徴として。
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