連載十 音楽スタジオ建設秘話


 小学校の頃、こんなクイズがあった。「大阪城を作ったのはだーれだ?」「豊臣秀吉」「残念でした。大工さんでした」

 下らない。この論理を認めてしまうならば、バッキンガム宮殿であろうが、タージマハールであろうが、ギザのピラミッドであろうが、ペンタゴンであろうが、全て作ったのは大工さんということになってしまう。「豊臣秀吉」と勝ち誇ったように答えた後、「大工」と返されて怒りだす子供や質問者を嘲笑する子供がいなかったところを見ると、小学生にはこの論理は認識されていたらしい。

 しかし、いい大人がこんな論理を認めるわけにはいかないのである。人生経験を少なからず積んだ大人であれば、「残念でした。大工さんでした」などと言われて引き下がるわけにはいかない。

「大工というのは、主に日本においては木材を中心とした建築に携わる職人を指すのであるから、石垣を積んだ職人を大工と呼ぶわけにはいかないし、瓦を葺くのは瓦職人であるし、障子や襖は経師屋であるし、当然建具屋も関わっているはずであるし、畳屋もいるし、壁は左官屋の担当であろう。君の答えには瑕疵がある」
 くらいの事は言い返したい。言い返したいのであるが、悲しいことに大人になってから、こういうクイズを出してくる人間は何故だかいないのである。
 
かつて、私たちは音楽スタジオを作った。その時、私たちは豊臣秀吉と大工を兼ねていたのであった。
 松戸のビアガーデンで一夏の地獄を味わった後も、私たちはバンドの仕事をしていた。今はもう無いが、新宿の西口のビルの最上階にあった若向けトロピカルパブだとか、まあそんなところをうろうろしながら稼いでいたのであったが、相変わらず貧乏であった。

 そんな時、最近練習用音楽スタジオが儲かるらしい、と言う話を聞き込んだ私は金を貯めて音楽スタジオを作ろうと画策したのであった。松戸のビアガーデンから一年が経った頃、六月と八月、浜松のビアガーデンで仕事をしないかという話が舞い込んだのであった。
 それは、事の他好条件だった。バンド用にアパートを借りてくれる上に、昼食と夕食を出してくれるということであった。つまり、ほとんど金を使わずに生活できるということだ。私がその話にすぐに飛びついたことはいうまでもない。

 私はバンドメンバーに倹約令をひいた。これが私たちの間で名高い「缶コーヒー缶コーラ麦茶禁止令」である。当時はまだペットボトルなどない時代であったが、水出し麦茶パックはすでに発売されていた。それすら倹約するために、二リットルのポットにインスタントコーヒー小さじ一杯を入れて、麦茶もどきを作り、普段はそれ以外飲んではいけない、ということにした。そして、一週間に一度、缶コーラを二人で一缶だけ飲むことを許可したのであった。

 この涙ぐましい努力により、私たちはある程度の金を手に入れることに成功したのであった。しかし、それはビルのワンフロアを借りることができる金額には程遠く、1DKのマンションをやっと借りられる程度の金であった。私たちは不動産屋を渡り歩き、何とか退室時の現状復帰を条件に大久保駅の目の前のマンションの一室を借りることに成功したのであった。
 さて、そこからである。借りたのは普通の1DKのマンションである。これを音楽スタジオにしなければならない。という訳で、知り合いの大工の棟梁に頼んだのであるが、丁度間が悪いことに、その大工さんが大きな仕事が入っていて、しばらく引き受けられないという返事が返ってきたのである。それならば、自分たちで作ってしまえ、というわけで私たちは発注元と設計士と工務店と下請けの職人の全ての任をこなす事になったのであった。その時の私たちはそれから始まる、ビアガーデン地獄に勝るとも劣らない大工地獄を知るよしも無かったのだった。

 ダイニングキッチンを待合室兼受付にし、和室の六畳をスタジオにするということに決まり、和室の内装を解体するところまでは順調であった。問題はそれからである。柱一つどう立てていいのか分からない。私たちは無い頭を寄せ合い、フル稼働させ、喧々囂々、侃々諤々の議論を繰り返した。八時間考え、二時間もめ、一時間働く。そんなことで仕事が進むはずも無く、時間だけが虚しく過ぎて行ったのであった。特に、天井を張るのには苦労した。石膏ボードというのを張るのだが、一人が押さえ一人が釘を打ち、その釘が曲がり打ち直し、押さえている方が怒り出す、そんなことの繰り返しであった。

「嗚呼、こんな事なら、棟梁の仕事が終わるのを待ってからにすればよかった」と思っても後の祭り。多分、本職の大工さんならたった一人で、二週間で終わるような仕事を、私たちは五人がかりで二ヶ月もかけ、建てつけの悪い防音ドアと継ぎ目だらけの壁と塗りむらだらけのペンキ後のついた音楽スタジオを完成させたのであった。

 そして、開店。したのだが客はいっこうに来なかった。しかし、負けるわけにいかなかった。宣伝をしたいのだが、雑誌に広告を出す金も無し、チラシを印刷する金も無し、当時はパソコンなんてないし…そんな時、この世にはプリントゴッコという自分で印刷ができる商品があるという話を知って、私はそれを買うことを決意した。そして、毎日毎日八時間、ひたすらみんなで割引券付スタジオ宣伝チラシを刷りまくり、楽器屋に配りまくったのであった。

 そして半年後が過ぎ、真っ白だった予約表が名前で埋まるまでになったのだが、やはり「餅は餅屋」「内装は大工」先人の教えに従って生きよう、とつくづく思ったのである。


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