連載十四 「弾き語り」という仕事 その二



 バニーガールまでして念願の弾き語りの仕事に辿りついた私であったが、試練はまだまだ待ち受けていたのであった。

 
 弾き語りになった私にまず待ち受けていた問題は、レパートリーの問題であった。

 レパートリーとは歌える曲目のことなのだが、弾き語りになりたての私はその曲数が少なかったのである。

 店で歌っていれば、お客からのリクエストも来るし、流行っている曲も覚えなければならない。

 仕事が終ってから新しい曲を覚えるという作業は、ある程度曲数が増えるまでなかなか大変であった。


 弾き語りをしていて良くされた質問に「昼間は何をしているの?」というものがあった。

「別に、何もしてません」と答えると不服そうな顔をされるので「絵を描いてます」と嘘をつくと納得されたのである。

 きっと人々は弾き語りとかミュージシャンというのを、大工とか建具屋とかと同じ様なちゃんとした仕事ではなく、遊びの延長ととらえていたのだと思うのだ。

「遊び人」というか「遊民」というか、そういうものだと思っていたのだろう。

「ここで歌っていない時は、一生懸命練習しています」と正直に答えたら、失望されそうな気がしたので「絵を描いてます」などと嘘をついたのだが、今はそれで良かったと思うのである。

 

 弾き語りをしてしばらく経つと、「掛け持ち」という仕事の仕方があることが分かった。

 これは弾き語り独特のもので、二軒の店を掛け持つという事なのだ。

 普通は三十分歌って三十分休憩するところを、一軒の店で三十分歌い、すぐに移動してまた三十分歌う、それを繰り返すのを「掛け持ち」というのである。

 当然ギャラは二軒分、二倍になる訳で、私もやっていたのだが、これが肉体的にかなりきつかったのだ。

 アコースティックギターを弾いたことがある人なら分かるだろうが、弦を押さえる左手の指の腹がすごく痛いのだ。

 「掛け持ち」をしていた時は家に帰っても痛くてたまらず、左手を氷水で冷やしながら右手だけでご飯を食べていたりしたのだが、こんなエピソードも演歌歌手の下積み時代苦労話としてはうってつけかも知れないが、私には似合わないので誰にも言うことはなかったのである。



 肉体的につらかったといえば、六本木のディスコだ。その店はフィリピン人バンドと私の弾き語りが交互に演奏する事になっていたのだ。

 バンドの後に弾き語りが出て行けば、当然誰もが踊りをやめてしまうのだが、そのディスコの店長は弾き語りの私にも客を踊らせるようにと言ってきたのである。

 ジャズのスタンダードナンバーや映画の主題歌などの聞かせる曲ではなく、乗せる曲を延々ワンステージ歌い続けなければならなかったのだ。

 ミュージシャンも肉体労働なのだ、とこの時につくづく感じたものである。そんな時にフィリピンバンドのメンバーが、何か錠剤のような物を飲んでいるのに気づいたのだ。

 何かと聞くと睡眠薬だと言う。

 飲むと楽になると言うので、欲しいと言うと、すぐにくれたので飲んでみたところ、本当に体が楽になったのであった。

 その時、ジミヘンやジャニスといったロックスターが薬に溺れて死んでいったことの謎が分かった気がしたのだ。

 それは精神的なつらさだけではなく、肉体的つらさから逃れるためだったのだと…。アメリカでのコンサートツアーのハードさについては本で読んで知っていた。

 バスで移動、本番そしてすぐに移動。

 その繰り返しの中で、つい薬に手を出してしまったのであろう。

 その影にはスターに簡単に薬を渡すグルーピーや取り巻きがいたことも知っていたが、同じ立場だったら、やっぱり手を出していただろうな、とこの時につくづく思ったのである。

 私の肉体的つらさは彼らとは比べ物にならないくらいだったから、幸い睡眠薬中毒にならずに済んだのだが、もっとつらい日々が続いたら…と考えるとちょっと恐ろしくなるのである。



 弾き語りの仕事で「ナイト」と呼ばれるのが深夜の仕事である。

「掛け持ち」と「ナイト」を両方こなせば三軒分、つまり三倍のギャラが手に入ることになるのだ。

 その頃練馬に住んでいた私は家の近くのスナックで「ナイト」の仕事に入ったのだ。

 それまで銀座、赤坂、六本木と一等地というか中心でしか仕事をしなかったのだが、家に近いし儲かるし、やってみようかと安易に考えたのが間違いであった。


 何とこの店は同じマンションの上階にある暴力団事務所の溜まり場だったのである。若い男友達が聴きに来てくれると「うちの組に入らないか」とスカウトするので参ってしまったのだ。

 そしてある日、今日精神病院を退院してきたという組員がいきなり店の中で暴れ始め、ソファーを投げたのだ。もう誰も止めることが出来ない悲惨な状況の中、店のマスターは同じマンションの自分の部屋にさっさと逃げてしまったのだ。

 私も危険を感じマスターの部屋に避難しようとインターフォンを押し、入れてくれと頼んだのだが、パニック状態のマスターは最後まで私を入れてくれることはなかったのである。



 つらいことも楽しいことも多かった弾き語りの仕事であるが、こうやって思い返すとやっぱり普通の仕事ではなかったな、と思うのだ。

 自分としては歌の職人だと思ってやっていたのだが、きっと職人と芸人と中間のような存在だったのであろう。

 そんな弾き語りの仕事も、弾き語りという文化もカラオケの普及によって、あっという間になくなってしまった。

 夜の街とミュージシャンが共存していた時代は、戦後のキャバレーから始まり五十年も続かなかったのである。


 私はその中で弾き語りが一番活躍していた時代にその一人であったことを、その貴重な体験を、ちょっとだけ誇りに思うのである。


 次(連載十五)を読む  前(連載十三)に戻る  
かげろう日記TOPに戻る