高円寺千夜一夜 第一夜 「ぐ」のくまさん その壱 その小さなお店のマスター、くまさんと出会ったのは、たしかおととしの秋あたりだった。そのお店は、高円寺ではちょっとだけ有名な「ペンギンハウス」というライブハウスの斜め前に小さな路地があり、その路地を覗いたとたんに看板と入り口が見えるのだ。 真っ白い看板に大きくただ一文字、「ぐ」と黒いひらがなが書いてある、そういう名前の店なのだ。店の中はL字型のカウンターのみ、十人も座れば満杯という大きさで、そのカウンターのうえには色々な銘柄の色とりどりのラベルを貼った焼酎の一升ビンがずらりと並んでいる。彼くまさんは自分の店の事を「うちはおしゃれなショットバーだからね…」と時々照れているような笑顔でそれでもなにかちょっと嬉しそうな顔で言うのだ。そもそも彼くまさんこと「ぐ」のマスター大熊久志さんと私が始めて会ったのはどうやらわたしがペンギンハウスでライブをやったときらしい。らしいというのは、その時私は始めて私のライブを聴きにきてくれた彼の事をほとんど知らなかったからだ。 ライブも終わってしばらくしたある夜、私はスーパーに買出しに行き、肉やら野菜やら山と買い込んで大きなビニール袋を三つもぶら下げて、雨の降る中、高円寺純情商店街の端っこをぜいぜい言いながら歩いていたその時だった。 「あっ!修子さん!」 はずむような明るい暖かい男性の声が聞こえた、思わず顔を上げて声のする方を見ると、そこにはその声そっくりそのままの明るく暖かい男性の笑顔があった。年の頃なら四十代…だろうか?白いTシャツの上にワークシャツを羽織り、野球帽のような帽子をかぶったその人はとてもきれいな笑顔をしていた。そしてその時が私にとっては、彼、くまさんとの初対面だったのだ。 それから数日後、私は始めて彼の店「ぐ」へ出かけた、くまさんはむろん大喜びして私を迎えてくれ、それから私は一人で時々そこへ通うようになった…。とこう言えば、ただ単にああそうですか、という話なのだけれども、自分でも驚く事には実はいい年をしていながらいままで私は一人でお酒を飲みに行くという習慣が無かった、という事にその「ぐ」へ通いだして初めて自分自身気が付いてびっくりしたのだった。 そんな訳でそのお店というより、マスターのくまさんという人についてここはひとつじっくりと語ってみたいと思うのだ。 まず彼は無邪気で明るい、そして表情豊かに話す声は活舌がきれいでハイバリトンの良く通る声質をしていて音圧も申し分無い、もし舞台で役者とかやっていたらすごく向いていただろうな…などと思って一回聞いてみたことがあった。それによると(彼はほとんど自分の過去とかプライベートな事を語らない人なのだが)やはり何回かは解らないが誘われた事はあるらしい、そしてその時彼が言ったセリフが「俺は金になんない芝居はやらないよ!」というものであったらしい…なんかすごく惜しい、というかもったいないというか、やれば良かったのに…と私は考えたりした。 そしてくまさんの「ぐ」は彼の魅力に惹きつけられる人々でいつも混んでいた。カウンターが満席になってもどこからともなく補助椅子が次から次へと出てきて、カウンターの中にまでお客達は座って、お酒を飲み、かつ、くまさんの面白い話をきき、彼の生き生きとした笑顔を眺めるのだ…、しかし、くまさんのところへ通いだしてすぐに、彼がとんでもない大酒飲みだという事がわかってきた。お客のみんながそう言っていたし、彼自身もその事を全然否定せず、私が「それってもしかしてアルコール依存症くらいいっちゃってる?」とか聞くと、くまさんは何だか照れてるようなまぶしいような、それでいてやっぱりちょっと嬉しそうな顔をして、「うん、俺そうかもしれない…」なんていうのだ。私は言ってみた。「それってネコがかつぶし屋やってるみたいなものじゃん?」この私の(ネコかつぶし屋説)はその時店に居合わせた他のお客の賛同を得て、「そうだよくまさん、かつぶし少しは減らした方がいいよ!」「うん、そうだよね!」などと幅広い支持、といっても二、三人の人が口々に似たような事を口にした。でもやっぱりくまさんはなぜか嬉しそうな顔をして、「大丈夫だって…」とか言いながら焼酎の水割りをちびちびと、そして夜が更けるにつれてゴクゴクと飲み進むのだった。 一方私は私で、初めて一人で飲む所ができたと思うと何だかちょっと嬉しくなり、でも今までそんな経験が無いものだから、くまさんの店で時々調子に乗って酔っ払い、ある時は何と「お勘定して下さい」とか言って、くまさんが、千何百円、…多分千三百円ぐらいだったのだろう、彼がそう言うと、何と私は千円札を一枚だけ出して、「お釣りはいらないよ」、と言って帰って行ったらしい。 そしてその事件の前なのか後なのか、もう忘れてしまったけれど、翌日大阪でのライブコンサートを控えているのに、私はダラダラと「ぐ」で飲み続け、「あした…大阪…なんだよね…」状態で酔っ払っていた。 「もう帰らなければダメだよ…」くまさんは心配してそう言い続け、「んーん…でももう一杯…」そんなやりとりが続いてとうとう夜中の一時を過ぎた頃、とうとうくまさんは実力行使にでた、「さあ本当に明日仕事なんだから!」そう言うと彼は私を担ぐような抱きかかえるような感じで店の外に連れ出して、私の家の方へ十分間以上もかけて送ってくれたのだ。 次の日、大阪へ向かう車の中で私は、あのまま飲み続けていたら一体自分はどうなってしまったのだろうと、反省しつつ「ぐ」のくまさんに改めてしみじみと感謝したのだった。 私のライブは大成功だった。 〜つづく 次(第二夜)を読む 千夜一夜TOPに戻る |