高円寺千夜一夜   第二夜


「ぐ」のくまさん その弐

 そういうわけで私は「ぐ」のくまさんと知り合ったおかげでそのお店で一人で飲む事を覚えてしまい、ついでに一人で酔っ払う事まで覚えてしまい、翌日大阪でライブの仕事だというのに、「ぐ」で夜中まで飲んで酔っ払った私を彼は強制的に、かつ優しく、私の家の近くまで送ってくれたのだった、そしてそのおかげで大阪のライブは無事成功したのだった。

 東京に帰った私はすぐに「ぐ」へ出掛けて行き、奈良で買った奈良漬と、なぜか阪神タイガース模様の缶に入ったお菓子をくまさんにお土産としてあげた(かなり後になって彼はヤクルトフアンだと知るのだが)。彼はとても喜んでくれて、今度一緒に飲みに行こうという話にもなった、そしてその二人の「飲み」がとんでもない事態におちいる事など哀れな修子(私のことです)はその時知る由も無かったのである。

 数日後、「ぐ」で最後まで飲んでいた私はくまさんと二人で他の店へ飲みに行く事にした。 

 時間は大体夜中の一時頃、少し歩いた所にある「P・T・O」という店に入っていった。壁とかその他のインテリアに何だかやたらに赤い色が使われている小さなお店で、若い男の子と女の子のお客しか居なかった。カウンターが一杯だったので私達二人は小さなボックス席に座った。くまさんは焼酎をドカドカ飲み始め、すぐにそばにいた若い男の子にむかって怒鳴り始めた。

「おう!コマッチよ、お前なんかカバーしかやってねえじゃねえか!オリジナルぐらいやれよ!」

「いいじゃないですか!別に!オレが何やろうと!」

 そう言い返したのが後で「ザ・コミックメンツ」というバンドのリーダーをやっている小松崎君だと解るのだが、何も知らない私は青くなった。大体ミュージシャンに向かってこんな暴言を吐く人なんて想像力の外だったからだ。それにそんな事を言ったらジャズミュージシャンのほとんどがそういうことになってしまう、

「くまさん、音楽なんて別にカバーでもオリジナルでもどっちでもいいと思うんだけど…」

 私がそう言ってフォローしようとしても何の効果も無かった、彼は気が済むまで小松崎君に怒鳴り声でからみ続けた、そしていきなり、「酒がねえぞ!」と叫んだ、私はあせってカウンターに行って中にいる若いマスターに焼酎のボトルを一本出してもらった。
「くまさんは本当は何になりたかったの?」

 私は聞いてみた、「ミュージシャンだよ…」彼は据わった目をしてそう言った。

「じゃあどうしてならなかったの?」

 くまさんはしばし黙り込み、焼酎をあおった、そしてこう言った。

「あんたが誘ってくれなかったからだよ!」

 そして次にこう言った。

「アッ、これすごく好いセリフだ!オレ多分覚えて無いと思うから、今度会った時教えてよね!」

 そして彼はさらに酔っ払い、店のマスター(後でそれがともくんという人で、ザ・ゲームスというバンドのリーダーだと解るのだが)にむかって「俺、出禁かよ!出入り禁止かよ!」と叫び始め、ともくん(朋という字を書くらしい)も負けずに「そうしたいッスよ!くまさん出禁にしたいッスよ!」と叫び返し、これはえらい事になったと思った私は、とりあえず「スイマセン、スイマセン!」と謝りながら、何とかしてくまさんをその店から連れ出そうと必死になった。

 そして、やっとの思いで外に連れ出したその後が又凄かった、彼を家まで送って行こうと思った私は気が付くと高円寺の高架下に居た。くまさんの家がどこにあるのか聞いても教えてくれないので、仕方なくそこへたどり着いたのだ。

「あの歌を歌え!」くまさんは言った。その歌というのは少し前に私が彼に捧げたオリジナルのブルース曲だ、仕方なくアカペラで歌った、くまさんは泣いた、涙と鼻水でグチャグチャになった顔で彼は言った。

「もう一回歌え!」悪いことにその頃の私はなぜか立て続けに仏教哲学関係の本を三冊も読んで感動しきっていて、頭の中にはやれ菩薩だの慈悲だの衆生済度だのといった言葉が渦巻いていて(今はほとんど渦巻いていない…のはなぜだろう)、そうだ!こういう気の毒な人ほど何だかよくわかんないけど救われなければならないのだ!などと思い込んでいたからたまらない…言われるまま、もう一回歌うとくまさんは泣きながら私に抱き付いてきて、私は私で、衆生済度!菩薩道!それからえーっと慈悲心!そうだ、慈悲心!それでいこう!などと考えながら抱き付いてくるくまさんを、よしよしとばかりに抱き止めた。そして、この、歌って、ハグしてというセットを十回以上繰り返したのだ。

 もうとっくに夜は明けきって、駅へ向かうOLやサラリーマン達は皆、この怪し過ぎる中年男女の行動に警戒心を露わにしながらゾロゾロと通り過ぎて行くのであった。嗚呼!

 それから数日後、私は「ぐ」へ急いだ、くまさんが自己嫌悪に苦しんでいるのではないかと思ったからだ…、案の定彼はしおれきっていた。そして、「自分を罰するために…」彼はそう言った、「自分を罰するために、しばらくの間酒を止める…」と、この人は何てドラマティックな人なんだろう…、私は少し感動した。そのついでに言ってみた、例のあのセリフ、「あんたが誘ってくれなかったからだよ!」これを覚えているかと…、当然彼は覚えていなかった、そしてこう言った。

「俺ってそんなに好いこと言ったんだ!」

 でも彼の禁酒は約束の日まで一ヶ月続いた。



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