高円寺千夜一夜   第五夜


「カフェフレンチ」のくりばやし(栗林宏行)くん

 彼との付き合いは長く、そして古い。思い起こせばかれこれ二十年近く前、私達がやっている「ペンギンハウス」がオープンした頃、彼、栗林くんは常連のお客として、いつもカウンターで一人で飲んでいた。…そしてそういうことをする若い男の子は、ほぼ同じ運命を辿るのだった(…しばらくするとなぜか皆バイトの従業員として働き始める…)

 彼も例外ではなかった。そして、しばらくの間働いた後、やめてどこかへ行ってしまう…この点に関して、彼も又例外ではなかった。

 月日は流れ…彼、栗林くんは、高円寺純情商店街の入り口、花屋の二階に「カフェフレンチ」という喫茶店をオープンさせた。

 平成十三年、十一月十二日開店、との事だ。

 噂を聞き付けた私は、すぐに行って見た。きれいで清潔で上品なインテリアだった。

 さっそくコーヒーを飲んでみたら、これがまたびっくりする程おいしかった。

 いきなり私事になるけれど、昔、十九才の時、女友達と二人でユースホステルを泊まり歩く、東北地方一週間の旅をしたことがあり、その時、青森駅近くの八百屋の店先で、一個十円で売っていたリンゴを買って、そのまま皮ごとかじった時の感動…(リンゴというのはこんなにもおいしいものだったのか…だとすれば今まで東京でリンゴだと思って食べていたアレは一体何だったのだろう…)

 丁度そんな感じだった。それと似た感動だった。

 (今までコーヒーだと思って飲んできたアレは一体何だったのだろう…)

 その位おいしいコーヒーだった。

 私はその味と、それから彼がこんなにカッコイイ喫茶店を出せた事、その両方に感動して、しばらくしての自分のコンサートで観客に向かって語った。

「人間はどんなに勉強が出来なくても、何の才能がなくても、好きな事があれば、それをひたすら追求していけば何とかなると思います、現に私の友人で……」と、彼、栗林くんの事を、その成功を話し、観客は感動して拍手までしてくれた。

 数日後、私は「カフェフレンチ」に行き、コーヒーを飲みながらさっそく彼にその事を報告した。すると彼はニコニコ笑いながら言った。

「僕…勉強…すごく出来たんですよ…」

「エッ!何、ホント?…そんなこと、言ってくんなきゃ解んないじゃない…」

 私は驚いたのと事態を収拾するのと、その両方でとりあえずブツブツ文句を言った。彼は笑顔でそれを聞いていた…そういうキャラなのだ。

 私はそれからコンスタントに、友人との待ち合わせとか、ちょっとお茶、とかいうたびに通い続けているけれど、時々彼が、おそらくネルドリップ、というのだろう…コーヒーを淹れている姿を目にするたびに、私は感心してしまう。それは物凄い集中力と、ほとんど宗教的情熱、としか表現できない…まるでどこかの古代文明における神官が、何かの儀式を執り行うかのような…誰も声掛けられない的な…それを目にする時、いつでも(おいしいはずだ)と、納得してしまうのだ。

 彼が初めてコーヒーを飲んだのは三才の時、ブラジルから伯父さんがブリキの缶に入れたコーヒー豆をもってやってきて、ネルの布で淹れてくれた、真っ黒いフレンチローストのコーヒーだったという。その後十才の時から自分の家でコーヒーを淹れ続け、二十四才の時に「経験者」というふれこみで高円寺の「サンマロー」という喫茶店で働き始め、その後七、八軒のコーヒー専門店で働きながら、色々なノウハウを学んだ結果、今の「カフェフレンチ」の味に到達したという。そして味ばかりではなく、彼はこう語った。

「僕はコーヒーの職人ですけれど、そればっかりじゃダメなんですよ、店主が眉間にシワを寄せてやっているような所はダメですね…何か趣味で、好きなことをゆとりでやっているというような感じが大切なんですよ」

 そうだろうな…私は思った。彼は続けた。

「お店をやっていると不思議な事に、例えば静かにしていたいという人はなぜかそういう日に、それから活気づいているのが好きな人はそういう雰囲気の日にいらっしゃるんですよ…」

 なるほど、それは面白い話だ…やはり実際にやっている人でなければ解らないことだろう…。そして彼は分厚い書類のような物を持ってきた。店を出す事を想定して自分で作った企画書だった。有効座席数とか、回転率とか、数字がいっぱい書いてある表のようなもの、それを指しながら栗林くんは楽しそうに説明を始めた…それを聞きながら私はだんだん解らなくなり(私には難し過ぎる内容で)彼は勉強が出来たというのは本当の事だろう…少なくとも私よりは勉強が出来たのは確実だろう…などと考えたりもした。そして話がさらに難しくなりそうなところで私は、

「なるほど…ところでさあ…」

 強引に話題を変えた。そして、

「将来の展望というか、夢は?」聞いてみた。

「やはり銀座とか青山にお店出したいですね」彼は即座にそう答えた。

「店の名前はやっぱりカフェフレンチで?」

「そうですね…この名前で…」

「でも、そうしたら今のこの高円寺の店は一体どうするの?」

「誰か、この仕事を覚えて、やりたいという人がいれば…後継者というか、教えたりしてもいいと思うんですけど…」

 彼はあくまでも穏やかな笑みを絶やすことなく私の質問に丁寧に答えてくれる…そういうキャラなのだ。

 私はこの店が、銀座とか青山にオープンしたところを思い描いてみた。広く格調高い店内のカウンターの中で、彼がネルドリップしている…頑張ってほしい、けど高円寺の住人は少しさみしくなるな…と思った。


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