連載九 熱砂のビアガーデン


 この世の中にはビアガーデンと称する飲食店の一形態が存在する。毎年飽きることなく六月になると、繁華街のあちらこちらに「ビアガーデン始めました」というノボリが立つのだが、それらは大概青を基調とした色であることが多い。これは涼しさを標榜したいのに違いないのだが、ビアガーデンという名称に関してはこれでいいのだろうか、と思うのだ。ビアガーデンとは「麦を主原料とする発泡性アルコール飲料を提供する庭園を有する飲食店」というほどの意味であろうが、めったなことでは庭園に出会うことはないのである。大方はビルの屋上に存在し、当然芝ではなくコンクリートの上にアルミ製の安手のガーデンテーブルと同じくアルミ製の椅子が置いてある。テーブルの真ん中に穴が開いていて白赤青の柄のパラソルが差し入れられていることもある。庭園という言葉の定義は詳しくは知らないが、これを庭園だというのならば、渋谷のスクランブル交差点も歌舞伎町のコマ劇場の前の広場も浅草の場外馬券場前の居酒屋が立ち並ぶ道も、庭園と称して差し支えないのでは、と思ってしまうのだ。

 かれこれ三十年近く前の話である。
 私は高円寺に『猫屋敷』というライブハウスをオープンさせた。バンド仲間と資金を貯めて元防空壕という住宅街の民家の地下の店舗を借りたのだった。ライブハウスと称していたのだが弾き語りくらいしかできず、それも毎日やっているわけではなかったので、普段は普通の飲み屋というかスナックというか、そんなふうに営業していたのだった。

 何とか開店はしたのだが、開店してみるとそこに大きな問題が横たわっていることに私は気づいてしまったのだ。その大きな問題とは「誰一人として飲食店の経営のノウハウを知らない」という、かなり根本的な根源的な問題なのであった。ただ客と話をしていても退屈な私は、客と店員―つまりバンドメンバーなのだが、十五人も入ればいっぱいの店に五人もいたのだった―思いついた役を割りふり即興演劇をやらせたりしていたのだ。『白百合女学院と黒百合女学院の抗争』などはかなり面白く、客もメンバーも大喜びで演じていたのだが、ここに一見の客が入ってきた時が問題で、ほとんどの客は目を点にして「間違えました」という顔をして帰っていってしまうのだった。

 こんな店が儲かるはずもなく、私たちは経済的困窮という問題に直面してしまったのだった。私は考えた…稼ぐしかない…だがどうやって…そうだ…これからビアガーデンがオープンする…バンドでビアガーデンに出て稼ぐのだ…私は知りあいの事務所の社長に電話をしたのだった。

 私たちが手にしたのは松戸の駅ビルのビアガーデンの仕事であった。八月のことである。私たちは十万円で買った中古のマツダのファミリアに五人で乗り込んで、当時私たちが合宿状態で住んでいた東北沢のアパートから松戸まで毎日毎日出かけたのであった。ここにまた、大きな問題が横たわったのだ。その車にはエアコンが付いていなかったのだ。ビアガーデンの入り時間は五時であったから三時には家を出るのだが、首都高で渋滞にハマルのが四時頃で容赦のない西日がファミリアの車体を照らし焦がし、窓を全開にしてもほとんどサウナ状態で、私は毎日キレまくりながら通ったのであった。

 当時の私たちのバンドのベースが元ツッパリで、それも正統派ストレートリーゼントに異常な執着を持っていたので、バンドのメンバーも何故か全員ストレートリーゼントにミリタリー調の半袖シャツを着て―もちろん私はリーゼントではなくストレートロングヘアーだったが―『ファニーキャッツ』というバンド名をでっち上げたのだった。ビアガーデンには当然従業員がいるのだが、それが揃いも揃って地元の不良高校生で、お決まりのようにパーマリーゼントをしていたのだった。不良の世界にはヘアスタイルのヒエラルキーが存在するらしく、ストレートリーゼントの方がパーマリーゼントよりヒエラルキーが上だったので、私たちのバンドは不良従業員からひそかに恐れられていたのだった。

 彼らは働いている時いつもマスクをかけていて、私が不思議に思っていると、そのベースが「あれはアンパン(シンナー)やってるんだよ」と教えてくれたのだが、そんな状態でよく働けるもんだなあ、と感心していたら、ある日地味な背広を来たおじさんに連れて行かれてしまったのであった。後から聞いた話によると、その地味な背広のおじさんは刑事で彼らは補導されたとのことであった。

 あまりの暑さで頭をやられてしまった私は、夏だし外だし暑いし音頭でもやるか、と急に思い立ち「ロック版東京音頭」を演奏したりした。ビアガーデンのバンドのナンバーといえば、その時流行っている曲かムード歌謡かオールディーズナンバーかといったところだったので、音頭などやるバンドは存在しなかったのだが、やってみて驚いたことに客が何の躊躇もなくごく自然に輪になって踊り始めたのだった。もちろん振りは適当なのだが、それをステージの上から見ながら、私は「民族の血」というものを痛感したのであった。

 ビアガーデンでは演奏が終わった後、食事を出してくるのだが、新たにまかない飯を作ってくれるわけではないので、そのメニューはそのまま店のメニューなわけで、当然のように揚げ物のオンパレードで、毎晩毎晩鳥の唐揚げにエビフライに串カツに鮭フライにコロッケにポテトフライに…揚げてないのは千切りのキャベツ位で、初めの一週間位は食べていたのだが、次第にみんな箸を持ったままため息をつくばかりという状態になったのであった。そんな中ギターのH氏の食欲だけは減退することはなかったので、私は「出身はどこだっけ」と聞くと彼は「ハイ、鹿児島です」と答えたのであった。

 嗚呼「こっちの血」も恐ろしいと、私は痛感したのであった。


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