(三)


 翌日店へ行くと、彼女達は相変らず熱心に対立していた、私はカウンターでマネージャーにそっと訊ねた。
 「あの人たち、一体何で、何が原因であんなに仲が悪いんですか?」
 「それが、僕にもさっぱり解らないんだよ、ただ、ずい分前からずっとああだけどね、まあ、お客が入ってくればふつうにしててくれるから……」
 私は絵理菜さんに声をかけた。
 「絵理菜さん、ちょっと歌ってくれませんか?、私、きのうの歌きいてびっくりしちゃって……」
 「びっくりって、何が?」
 けだるそうに彼女は答えた。
 「いや、あんまりうまいんで……他の歌も聞いてみたくて……」
 「あらそう……いいけど……」
 彼女はゆっくりと立ち上がった。
 きのうのあれは、錯覚か、何かの偶然ではないのか……私は少し心配だったのだ。
 彼女はきのうとは違う歌を歌った、一般には知られていない歌謡ブルースだった、私はたちまちシビれた、せがんでもう一曲歌ってもらった、今度は有名な三拍子の曲だった、彼女の歌い方は二曲とも「ルバート」で、三拍子の曲はところどころ四拍子になったり五拍子になったりした、けれどそんな事は関係ない、むしろ原曲の譜面の方がダサイんじゃないか?と思うぐらい彼女の歌は見事で、説得力があった、「この人は天才だ!」、私は確信した。
 一曲ごとにパラパラと拍手がおきた、絵理菜派の三人だけが拍手をしていた。
 「絵理菜さん、あなたはすごい、すごいですよ!」
 私は少し興奮気味に言った。
 「あら、そう……」
 彼女は無表情に答えた、丸い目にくっきりと黒いアイラインを入れたその顔は、何を考えているのか……解らなかった。
 「まあ!お上手でけっこうですこと!」
 突然雪乃さんがそう叫んだ、雪乃派のホステスがミツコを除いて一斉に笑い声を立てた、わざとらしい笑い方だった。
 「雪乃さん、あなたには絵理菜さんの歌がわからないんですか?、すごいですよ、すごくうまいんですよ!」
 「あら、そうだったんですか?、でもね、私共しろうとにはそんな事わかりませんけど」
 雪乃さんは何か挑発的な言い方でそう言った。彼女は店中で一番年が上らしく、もう四十才に近いか、もういっているか……痩型で面長の、ちょっと気の強そうな人だった。
 「じゃあ、なぜ笑うんですか?、何もわからないなら、笑う事はないでしょう?」
 「あら、笑っちゃいけないんですか?、人間、好きな時に笑ってもいいんじゃないですか?」
 雪乃さんはますます挑発的にそう言った。 「先生!、もうやめなよ!」
 絵理菜さんが叫んだ。私は黙って彼女の前にあるソファまで行って座り込んだ。
 「絵理菜さん……ギターとか弾く気ありませんか?、私で良かったら毎日早い時間に教えますけど……むろんタダでいいですけど……」
 「別にいいよ……そんな……あたし面倒なことキライなんだよ」
 私はびっくりした、これだけの才能を持ちながら、彼女はそれに気付かず、その上「やる気」というのが全然無いのだ……どうやら彼女を弾き語りにする事は出来そうもない、しかし何かの形で彼女を「歌手」にする事はできないものか……私は考え込んだ、しかし私には数人の弾き語りの友達がいるだけで、何のコネもツテもなく、その上自分自身、必死でハコを探し回って細々と仕事を繋いでいる身の上ではないか……。
 「あたし、五つ年下の亭主がいるのよ……」
 絵理菜さんがポツリと言った。
 「へえ……何やってるんですか、その旦那は?」
 「蒲田のキャバレーでね、司会者をやっているのよ……」
 「えっ!?、キャバレー!?、じゃ、そこバンド入ってるんでしょ?」
 「うん、入っているよ」
 「そこで歌わしてもらうこと、できそう?」
 「さあ……ウチのに聞いてみるよ……先生はバンドで歌いたいの?」
 「いやいや、違うって、私じゃなくて絵理菜さんが歌うんだよ」
 「あたしが?、何で?」
 「絵理菜さんは天才だからだよ、歌手になれるよ、きっと、頑張ればスターにだってなれるかもしれないと思うんだ!」
 「…………」
 「いらっしゃーい!」
 店中が叫んだ。

 数日後、何気なく絵理菜さんが言った。
 「ウチのに聞いたんだけどね、譜面さえあればいつでも歌わしてくれるって……バンマスがそう言ったんだって……」
 無表情な彼女の目の中に、私はかすかな「やる気」を感じ取った、嬉しかった、ただ問題点はある……例の「ルバート唱法」だ、私は彼女にその点について何一つ言って無かった、この歌い方では絶対にバンドでは歌えない……何とかしよう……。
 「そのバンドだけれどね、何人編成で、どんな楽器の人がいるのか……旦那さんに聞いてきてくれる?」
 「うん、いいよ……」
 彼女はそう言ってちょっと笑った、私も思わず笑った……。
 「あの……先生……ちょっと、」
 ミツコが近寄ってきた。
 「なあに?」
 「お金、少し貸して頂けないでしょうか?」
 「お金?、いくらぐらい?」
 「本当は五万円ぐらいなんですけど、二万でも三万でもいいんですけど……」
 「何に使うの?、そのお金」
 「あの……私の先生が今度○○レコードのディレクターに会わせて下さるっておっしゃるんです……」
 「へえ、いいじゃない!?、でもそれとお金と何の関係があるの?」
 「三十万いるんです、そのディレクターさんに会ってもらうために……」
 私は突然激しい怒りに囚われた。
 「誰がそんなこと言ってるの?」
 「私の先生がそうおっしゃるんです……」 相当悪質な奴だな……その「先生」とかいう奴は……私は思った。
 「あのね、私良く知らないけどね、別にディレクターに会うためにお金を払う必要なんてないと思うよ……何か変じゃない?、その話って……」
 「でも、先生がそうおっしゃるんです、それに……デビューするためにはプロデューサーとか、そういう人と寝ないといけないんです……」
 「あなたの先生がそう言ったの?」
 「はい……」
 「で、あなたはそれを信じてるわけ?……つまりその、プロデューサーとか何とかと、そういう事をするつもりなの?」
 「……今はわかりません、その時になったら考えます……あの……お金貸してもらえないでしょうか?、必ず返しますから……」
 私はまじまじとミツコの顔を見た、決して美しいとはいえない彼女の顔は、何かに執り憑かれたように異様に真剣だった。
 「私は貸せないよ、その話、信じられないもん、それに……」
 あなたは騙されているのだ、と言いたかった、けれど、彼女の「夢」を壊す勇気は無かった。
 「私は貸すからね!」
 雪乃さんが言った、そして雪乃派の全員が同じような事を言い、「やっぱり芸能界に入るんならその位の事はあるだろう」というような事を口々に言った。
 私はイライラした、ここの女の人達はどうしてこんなに物わかりが悪いのだろう……カウンターに腰掛けて私はピアノの指づかいの練習を始めた、ありもしないピアノを頭の中に描きながら……いつも暇な時はそうしているように……けれど、その日はなぜか心乱れて全然集中できなかった。

 二日後、絵理菜さんが私に小さな紙切れを渡した。それには、ピアノ、ベース、ドラム、ギター、トランペット×2、トロンボーン、テナーサックス、アルトサックス、とだけ書いてあった。
 「これ、そのバンドの全員なの?」
 私は聞いた。
 「うん、それでそのトランペットの一人がバンマスなんだって……」
 そうか、とにかく作戦がいるな……私は思った、彼女の歌は素晴しかったけれど、バンドでは絶対歌えない……今まで歌っていた歌を間違った歌い方だ、などと言いたくもなかった……彼女はなかなかプライドが高い人なのだ……残る道はただひとつ、オリジナルを作ろう!彼女のために、彼女に似合う、そしてできるかぎり符割の簡単な曲を作ろう!。 私はその頃ひそかにオリジナル曲を作り始めていた、何のあてもなく……今考えればすごく青くさい、やたらシュールな詞の変な曲ばかりを少しづつ作っていたのだ。
 私は歌謡ブルースを初めて作ってみた。
 「ダウンタウンブルース」と名付けた。

   誰でもいいからこの私
   連れて逃げてよ
   捨てられた女にゃ行くところがない
   どしゃぶりの街傘もささずに
   ただ歩くだけ
   雨よ 雨よ 流してよ
   あの人の声 あの人の肌
   ここは下町 涙も涸れる
   ここは下町 誰も翔べない
   ここは下町 ダウンタウンブルース

 これがその曲の一番の歌詞だった、曲はできるかぎりフレーズの頭が小節の一拍目にくるようにして、わかりやすく、そのかわり、彼女の得意なブルーノートをいっぱい散りばめてみた、そして彼女専用の譜面?、を書いてわたした、それには音符の代りに歌詞の間に黒い点を並べたものだった、その黒い丸はたとえば一拍休む所にはひとつ、四拍のばす所には四つ、という風に、最初の頃の私が苦労したからこそ考え出せたアイデアだった。 「この曲はちょっと難しいからね……」
 私はウソをついた、そしてその特製の譜面の読み方をクドクドと説明し、それを見ながら私が歌うのを聞いて、曲を覚えてくれと言った。

 数日して彼女はすぐにメロディを覚えた……私のわたした紙を持って、今度は彼女が歌った、最初「 ここは下町……」という所で間違えた、ここだけは仕方無く小節の頭からでなく、一拍休んで「ここは……」と出るように作ってあった、私はできるかぎりわかりやすく説明をくり返し、彼女は歌った……お客がくるまでの間中……。
 「うるさくてたまんないよ、同じ歌ばっかし聞かされてさ!」
 案の定雪乃さんがイヤミを言い出した。
 「カンケイないだろ!お客いないんだから」
 絵理菜さんも負けずに言い返した。
 「何だって!」
 雪乃さんが立ち上がった。
 「やるのかよ!」
 絵理菜さんがマイクを床に投げた。
 「やめなさい!二人共、ここはケンカしにくる所じゃないんだよ!」
 マネージャーが大声を出した、初めて聞く彼の声と態度だった、店中シーンとなった、お客が入ってくるまでそれは続いた。

 二日後、絵理菜さんは紙を見ながらなら、完璧に歌えるようになった、次は暗譜だ……。

 次の章(第四章)を読む

 前の章(第二章)に戻る